株式会社 多摩設計

    
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恵まれたスタート

 

昭和(以下S37年、大学を卒業し、大学院へ籍を置きながら、当時非常勤講師として早稲田で教鞭を取っていた曾原国蔵氏に師事しました。当時、注目のアルミ素材を使用したプレファブ住宅の開発に携わって4年が過ぎ、もうひとつ前向きになれずに辞しました。昭和も41年になろうとしていました。私の父・丈一は昭和の始めに川崎市境町に建築事務所を開設し、住宅をはじめ社寺建築等の仕事をしていました。私の生まれたS12年の支那事変を切っ掛けに日本は戦乱の時代に入り、父の仕事も充実を欠いていたと想像されます。そうした世相の中で終戦を迎え、川崎もまた焼け野が原となりました。市民による復興は目覚しく、バラックが続々立ち並んでいきました。

父の仕事内容は一変し、町の大工さんより依頼の図面作りと確認申請業務に追われる日々となりました。内風呂なんて無い時代、公衆浴場も次々に建てられ、少し予算のある浴場は入口を唐破風様に造るのが常でありました。父の腕も買われ、多くの浴場を設計しました。S20年代後半まで続きます。25年に建築士法が制定され、許認可の管轄は警察から県や市へと移りました。25年以降は朝鮮戦争に伴う特需景気もあり、4号確認の仕事は忙しく、密度の濃い設計からは遠ざかっている父は忸怩たる思いであったに違いありません。

そうした30年代も終わり、40年代に入り、社会情勢も落ち着いてきた時に、フリーになっ私に父は新たな設計事務所の開設を提案しました。私はS401月に一級建築士免許を取得していた事も理由のひとつに違いないでしょう。その頃、父の事務所には大和市に本社を持つ池田金属工業からの依頼で日産の車のシートを生産する池田物産の工場の設計依頼を数多く抱えていました。父は確認業務等世事に疎い私のために経験豊富な弟子の成田辯三氏(叔父)を参謀としてつけてくれました。また、父の岩田建築設計事務所は弟である岩田敦が引き継いでくれたのも幸いしています。そうした恵まれた環境の中、多摩建築設計事務所は産声を上げたのです。

 

設計業界ほかでの仕事

 

S44年、神奈川県立生田高等学校の設計監理を県より受けました。当時、県は特命方式でした。多摩という名が幸いしたのか当事務所にとっては学校建築の第1号となりました。次いで生田東、百合丘と高校シリーズは続きました。実際には随分と苦労をしましたが、実績となって事務所の基盤が出来た事は確かです。一方事務所開設の年、S414月より関東学院大学の建築学科非常勤講師として、週に1日出講していました。また、県下の設計事務所の集まりである神奈川県設計協会にも参加しました。最年少の私は大変多くの影響を受けました。この会は紆余曲折を経て現在の日本建築家協会神奈川(JIA神奈川)となっています。当時の川崎市の建築行政と言えば公共施設は100%役所内部で設計をしていました。技術者も相当数居り、わずかに構造設計を外部、それも大学の研究室等に発注していました。S50年、ある方の発案で川崎にも設計事務所の集まりを作ることになり、当時、坂東建築事務所(現川崎設計)の坂東良平氏を会長に10数社で川崎市建築家の会を立ち上げました。そして、市へ働きかけを重ね、徐々にではあるが、民間への発注がなされるようになってきます。S61年私が会長に指名され、6年後の平成(以下H5年、協同組合化に踏み切ったのです。東京の大手設計事務所に対抗し、纏った案件を組合で受注する目的での動きです。その後、任意団体から組合まで11年勤めた会長を辞し、今、会は何代かの理事長を経て継続しています。

 

オーナーに恵まれる

 

多摩建築設計事務所を立ち上げた当時、民間事業主のある方に大変ご贔屓を頂き、幾つもの建物を設計させていただきました。既に故人となられたが、この方の存在は大きいと今でも感謝しています。また、住み慣れたこの川崎という地域の人々にもお世話になり、今の事務所があるのです。S48年、川崎区南町に共同開発ビルを手がけました。市の住宅供給公社の主導で地権者4での事業です。最大の地権者は結婚式場を営んでおり、上部に乗る住宅のベランダで干される洗濯物を拒否していました。欧米ならいざ知らず、当時の日本で洗濯乾燥機を備えた集合住宅はまず無いに近いと思います。コストも大変です。そこで、逆向きルーバーを採用し、まず下からの視線を防ぎ、騒音をも跳ね返す。大事な太陽光線は十分に取り入れます。こうした発想が実り建物は完成しました。完成後42年近くなる現在も古びた感じがしないと自負しています。

その他、大師地区ではお大師様のお陰で、表参道、仲見世、駅前地区で葛餅屋さん、飴屋さん、パン屋さん等の店舗を設計しました。また、母校の宮前小学校を設計させていただいたのも地域の方々の応援のお陰です。また、中原地区で流通関係の事業を展開する会社の当時の社長にも、ある方の仲立ちでご贔屓を頂き、南は福岡から北は盛岡まで全国ワイドで流通倉庫を設計監理しました。時代は平成になり、バブルの到来です。事務所開設以来25年が経ち、官民問はず景気は絶頂で、この時の収入高は今も越えられません。

川崎区渡田にある新田神社の社務所を設計し、その切っ掛けで小さな中華料理店を頼まれました。店主であるシェフの注文は「入り難い店」です。腕に自信があるから客は何処からでも来る。有名人も来る。従って、気軽に入られては困ると言うのです。店主に案内された中野の小料理屋をヒントに「壺中天」は出来ました。茶室の露地を思わせるアプローチ、空へ抜けた待合空間、一日一客の部屋は料理の開祖・中国より来た隠元禅師の黄檗山万福寺の中庭を連想しました。H1年の9月の完成です。

H4年には横浜の山手カトリック教会司祭信徒館の仕事に巡り会いました。この地区は横浜の観光名所の一帯であり、市が景観には規制的です。当初、打ち放し仕上げを拒否されたが、何度かの説得の末許可を取り付けました。建設委員会の信者の方々と幾多の協議の後出来たこの建物は思い出に残る作品です。御堂を設計したJ.Jスワガー(A. レーモンドの弟子)はここの他に全国7箇所に作品があります。横浜保土ヶ谷、大阪豊中、福島などを見てまわりました。開港以来この教会の工事をして来た関工務店が工事をしてくれたのですが残念ながら会社は今は無くなりました。

その後、川崎の西口大宮町地区で複数地権者による共同開発を手掛ける事になりました。最大の地権者は父の古い友人のご子息であり、私の高校の先輩です。この建物(超高層22階)はこの地区第1号で未だ開発ガイドラインが市と県で調整中であったために、工期に大きく影響しました。また、権利調整と近隣説得に時間が掛かり、始めてより3年がかりのH8年に完成しました。またとない機会を与えられ、建主に感謝しています。

 

建築の美を求めて

 

この50年を振り返って思うに、岩田穣という男は誠に運の良い人間だと感じています。前述のとおり地域の方々に応援をして頂き、多くの事業主からご後援頂き、また、スタッフにも恵まれました。設立当初から本業のほかに大学や業界等二足も三足も草鞋を履き必死で頑張れたのも若さと共に成田弁三叔父の助けのお陰と感謝してます。

今、建築家としてつくづく思うに、果たして街づくりにどれだけ貢献できたか?いや、かえって消しゴムで消せない物を残したか?忸怩たる思いが胸をよぎります。美に関する感性は人それぞれに違うものがあります。それでも、個人は個人なりに建築の美を求めて何処までも行く必要があると思います。建築の安全性や機能性は当たり前のことと言いながら昨今の自然の猛威に接すると疑問視せざるを得ません。建築にも絶対は無い!しかし、安全や機能や美を目標に掲げ邁進するよりないと思います。次の世代に期待するだけでなく私に今何が出来るか?それに向かってまだまだ頑張らねばと思う次第です。



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